推しという言葉について。
その語感はポップだが、かなりの深度を備えているように思う。
人によっては、推しは己という存在を成り立たせている重要なエレメントだったりするだろう。
もしかしたら自分自身はもちろん、肉親や身近な友人よりも大切な存在かもしれない。
私はとあるアスリートをそっと推している。
「そっと」というエクスキューズを添えているのは、私は執着心が強く、のめり込みやすいタイプだからだ。
下手をすると、危ないファンになってしまう。
あくまで「そっと」推す。これが私の推し活の鉄則である。
だからこのエントリでも推しの名前は出さない。
さて。
私の推しはアスリートなので、結果を厳しく問われる。
これはなかなかに心がえぐれる。
「推しだって人間なんだからさあ。失敗だって不調だってあるよ!」
そう擁護したいが、スポーツとは厳しい世界だ。敗者は無惨に叩かれる。
どんなに辛かろうとも競技を続けるであろう推しに対して、凡人である私は何ができるだろうか?
ない頭をひねって出した結論は以下のとおり。
- 凡人なりのベストを尽くすこと
- 周囲の人と穏やかに関係を結ぶこと
- 健康に留意し、心身をつねに清新に保つこと
要するに、元気でいることぐらいなのだ。私にできるのは。
もしかしたら、素敵な因果律が働き、私の推しへの想いが祈りとなって、よきものをもたらすかもしれない。
そう願いたい。
私の推しは今、辛い状況にある。
推しよ、どうかごはんを食べたら美味しいと思っておくれ。
愛する人と存分に語らって安らぎを覚えておくれ。
これまでのパフォーマンスで多くの人々を魅了してきた自分を誇っておくれ。
そしてこの苦境に負けず、ひとすじでいいから光明を見出しておくれ。
──夏が近い。
太陽を背負いながら、その輝きに負けないほどの結果を出す推しを信じている。